過干渉でストレスを与え続けてきた毒親
アラフォーになった今になって思う。
私を育ててきたのは、現在で言うところの「毒親」だったと。
父親は、平日:工場勤務、休日:趣味の野球ばかりで、家にお金を入れるだけの人。
教育は母に丸投げのクセに、「お前の教育が悪い!」とか平気で言い放つロクデナシ。
一方の母親は、地方公務員を永年勤めて上げ、一見すると社会的にマトモ。
子どもの教育にも積極的に関与していたが、後から考えるとかなり凝り固まった方針だった。
田舎農家ではメジャーな事情を抱えて夫婦になった2人で、私はそこの「二男」として誕生した。
いや、誕生させられた。
育ててもらった恩、高等教育を受けさせてもらえた恩、子どもの出生でサポートしてもらった恩を感じてジレンマに陥ることもあった。
しかし近年、それらを上回るデメリットが「おせっかい」として発生していたため、絶縁という事態に至った。
毒実母からの「しばらく そちらにはお邪魔しません」
私に子どもが誕生してからは、実母は俗に言う「おせっかい婆さん」に変わった。
孫2人に気に入られようと、不要なおもちゃや、健康に悪そうなお菓子をわんさか買ってくる。
私たち夫婦が共に外勤務で忙しいときは、孫の面倒を見てもらうこともあった。
そのため、ある程度の「おせっかい」も苦笑いしながら許容していた。
実母としても、息子を念願の公務員に育てあげ、さらに孫を2人授かった。
そのような家族関係に、実両親は充実した満足感を抱いていたようだ。
しかし私の独立・開業を機に、関係が悪化。
私が自宅での仕事に切り替え、育児にフルコミットするようになったためだ。
次第に母のおせっかいが疎ましくなり、父の横暴な振る舞いも見過ごせなくなった。
そしてとうとう実母から私の妻あてに、LINEメッセージが届く。
「私の息子は心を病んでいるようです。しばらく そちらにはお邪魔しませんがよろしくお願いします」
「親が疎ましい」と思ってから関係を切るまでは短かったが、それに思い至るまでの「洗脳」期間がとても長かった。
今思い返すと、まさに毒親による洗脳教育。
アラフォーになって、ようやく全てを断ち切ることができた。
この記事では、私の生い立ちと洗脳教育に始まり、成人してからも展開された「おせっかい」、そして絶縁に至るまでの経緯を赤裸々に語る。
国内では、「私は毒親に育てられた」などの声が上がるようになってきた。
社会的に注目され、他の方が受けた仕打ちを自らに落とし込むことが増えてきたからだろう。
もし私の記事が、今も毒親に苦しむ方の助けになれば幸いだ。
過干渉の毒親に育てられた私のプロフィール
田舎で一般的な共働きの夫婦の二男として出生。
兄1人、姉1人の3人兄弟の末っ子で、母方の実家に養子に入る前提で育てられる。
成人するまで「毒親」のもとで、凝り固まった教育を受ける。
23歳で母方の祖父母のもとに養子入りする。
その後、地方公務員として約15年間勤務するも、風貌や気質からタフ系の部署に回される。
勤務10年目で第二子誕生の際、当時の男性では珍しい1年間の育休を取得。
育児をこなしながらも今後の人生を真剣に考え、公務員を退職して独立。
引き継いだ農地で小規模農業を行いつつ、ブロガーとして歩み始める。
私自身の子に対する「毒親のお節介」に耐え兼ね、今回の絶縁に至る。
・もっと細かく知りたい方 → 私のプロフィールへ(内部リンク)
・日本の育児環境が良くなるように、こんな記事も書いてます(内部リンク)
『【3人いたら大学授業料が無償!】本当に「ずるい」のはだれ?』
過干渉な毒親のもとに私が出生した特殊事情
私は農家の「後継ぎ」として出生させられた。
母が田舎の農家の一人娘だったが、婿養子を取ることができなかった。
父は大規模農家の三男、家を継ぐこともないドラ息子。
しかし父方の祖父がその家柄にこだわっていたようで、「婿養子になんか、やれん」と断られたそう。
そこで泣く泣く「二男が産まれたら、成人後に養子に送り出し跡取りとする」という約束のもと、婚姻は成立。
そんな状況で、ノコノコと二男として産まれてしまったのが、私だったのだ。
多少珍しいかもしれないが、田舎ではけっこう耳にする話だ。
田舎なので、ボロい家屋や売れない農地を相続する苦労がある。
ただ母方の祖父母が、後継ぎである私用に資産をある程度遺していったので助かった。
私の人生の代償を考えると、これぐらいの資産では全く釣り合わないところだが。
「自ら考える力」を奪っていた毒実母
私は物心ついたころから、「おまえは、祖父母の家の跡取りになるんだから」と呪文のように聞かされて育てられた。
当時は当たり前のように感じていたが、今思うとこれは「洗脳」以外の何物でもない。
当然ながら大事にはされていたようだが、地元から離れていかないように制約があった。
わが町のような田舎では、選べる職業が少ない。
手堅いところでは、銀行員か公務員ぐらいしか勤め先がない。
また母方の実家に農地があるとはいえ、農家1本で暮らしていくには厳しいところだ。
そんな状況下で毒母は、母自身と同じように私が公務員になれるように上手く誘導していった。
毒親に与えられた最後の自由:大学生活
大学選択時もほとんど自由はなかった。
上子2人が国立大学に在学していたため、家計はけっこうカツカツ。
私も国立大学しか選択肢がなかったが、電車で1時間ほどの都市に下宿を認められた。
これは私の人生における「最期のわがまま」として許された。
毒母としては、「わがままを聞いてやったのだから、その後はしっかり帰ってきてもらう」という条件だったようだ。
制約が多かった人生だが、大学生活の間はとても楽しませてもらった良い時期である。
田舎では羨ましがられる地方公務員
大学在学中は、地元自治体の公務員試験を受験しなかった。
浅はかながら自らで思うところがあり、国家公務員の道を選んだのだ。
国家公務員といってもⅡ種のノンキャリアで、異動も東海・北陸のブロック管内で制限される。
そんな国家公務員生活の1年目に、「養子に入る」という約束の時期が迫っていた。
養子入りあいさつで毒父から屈辱的な言葉
具体的に「〇〇歳で養子に入る」という約束はなかったが、互いに社会人になってからという認識で過ごしていた。
私も「そろそろかな」という心構えでいたので、驚くこともなかった。
手続きは地方公務員の母がテキパキと進め、私は委任状を書いたくらい。
実感が全くわかないまま事が進み、私は母方の祖父母の正式な養子となり、改姓も行なった。
養子のお披露目会として、母の地元では近い親戚を集めていた。
祖父は無念にもその前年に他界していたが、祖母は涙を流して喜んでくれた。
しかし、私が親戚の前で養子入りのあいさつを行なった後に、毒実父から衝撃的な言葉を浴びせられた。
「こんな所の養子になって、なさけないヤツ!」と、面と向かって言われた。
実父の実家が婿養子に反対したため、私は人生を犠牲にしてまで養子入りを洗脳された。
そんな息子にかける言葉だろうか。
私はこの屈辱的な言葉を、一生忘れない。
そして自らの子どもたちには、こんな縛られない人生を歩ませてあげたい。
毒母の次なる狙い
とりあえず形式上の約束は果たしたが、私は地元に戻らず近郊の大都市で働く日々。
そんな社会人1年目の私に、毒母は執拗な精神攻撃を行なってきた。
内容としては「いつ転職して、地元に帰ってくるんだ」という執拗なものだった。
国家公務員のツラさと毒母の後方からの攻撃もあり、私は2年で国家公務員を退職。
毒母の望みどおり、地元の地方自治体の採用試験を受けてパスしたのだ。
数年の紆余曲折があったが、これで毒母の思惑どおり「望み通りの後継ぎ」が誕生したのだ。
・公務員の毒親が自身の子を、公務員にしたがる心理を分析 ↓(内部リンクへ)
『【みんな知らない!2世公務員の悲劇】公務員の親は子をつまらない公務員になぜするのか?』
過干渉な毒母の願い:後継ぎを見るまでは
晴れて地方公務員として働き始めた私。
結婚については、毒親が心配するまでもなく30歳までに完了。
ただ子どもについては、不妊治療を経るなどして比較的長かった。
不妊治療の結果、2人の子(娘・息子)に恵まれ、これにて毒母の願いが成就。
しかし本当に煩わしいのは、ここからだった。
始まった毒実母の過干渉プレゼント攻勢
1人目の子どもが産まれた後から、毒母は何かにつけてプレゼントの口実を見つけようとする。
隔週ながら週末に、わが家を訪れるようになる。
その際には子ども向けのお菓子に加え、数百円の玩具を数個買ってくる。
お菓子は添加物など満載で、安全性などが全く考えられていないものばかり。
管理栄養士を持ってはいるが
毒母は大学在学中に、管理栄養士の資格を取得している。
当時としては、花嫁修業の要素もあり取得したかもしれない。
しかし、母の料理は決して美味しくなかった。
端的に言うと、味付けが無駄に濃い。
甘ければ甘いほど美味しい、などという単純な見方しかできない。
そんな母は、孫2人のためにスイートポテトやポテトサラダなどの手料理をタッパーで持参してきた。
しかしそれでも味付けがすべて濃いので、なるべく子どもらには食べさせないようにした。
管理栄養士の資格って、どんな基準なのか。
横暴な毒父と変化した毒母
孫2人の世話にいく毒母を、毒父は妬ましく思っていたようだ。
自分の世話をかまけて、出かけていくのに嫉妬したようだ(ガキか!?)
そんな毒父からやっかみを言われ、毒母も変化していった。
ある日「(妻方の)お母さんは、助けに来てくれないのか?」
妻の実母は車で1時間ほどの距離に居住し、70歳も超えている。
そんな頻繁に来れるものではない。
そもそも、わが家はそれほど妻方の祖父母の力をアテにしていたわけではない。
確かにわれわれ夫婦が共働きで外に出ていたので、育児も精いっぱいだったが誰かに泣きつくほどではなかった。
毒母は「自らの生家で私(息子)が苦しんでいる」と勝手に思い込み、救済方法を思案していたようだ。
コロナ禍での毒親過干渉で亀裂
2020年頃に新型コロナウイルスが流行し、国内でも猛威を振るった。
ウイルスに対するスタンスは、個人や各家庭によってまちまち。
しかし国内の行政をはじめ、特に人の集まるところでは大混乱。
3歳&0歳の育児休業中だった私は、もろにその影響を受けることに。
保育園からも登園自粛要請がかかり、ショッピングセンターにも気ままにお出かけできない。
3歳の娘に対して、公園くらいしか自由にお出かけできずに退屈な日々を送らせたと後悔している。
当時の私としては、付き合いでマスクだけは装着する程度。
しかしウイルスについては、「感染して免疫ができてナンボ」のスタンスで、混乱する国内行政にも辟易していた。
ここから毒親による「コロナ禍の過干渉」が始まった。
毒母のコロナウイルス対応
私とは対照的に毒母は、「徹底的にウイルスを恐れる」タイプ。
「シニアは重症化しやすい」という情報もあったので、私はある程度はその考えを許容していた。
そんな毒母は、早急にワクチンを2度接種。
さらに、息子の私にも接種するよう強引に勧めてきたので、かなり煩わしかった。
私が娘を連れて外出していることを知ると、
「こんな状況で出かけるな、食料品は私が買ってきてやる」と要らぬ世話を焼いてくる。
私としては、「感染が怖いならば、お前がそもそも出かけるな!」と突っ込みたかった。
毒母としては、’大変なコロナ禍で息子家族を助ける母’を演じたかったのだろう。
この一連のコロナ騒動により、「コイツ、やっかいな婆さんだな」と私が認識するようになった。
人生最大の転機:独立・開業
私は毒母から洗脳みたいな教育をされたが、「親が決めたレールを歩いている」という気はあまりなかった。
しかし、2人目の子どもの育休中にいろんな知識や働き方を勉強する中で、公務員としての仕事にやりがいを全く感じられなくなった。
そんな私は特に思い悩むことなく、公務員を退職し独立・開業という道を選んだ。
転職ではなく開業したのは、幼児期の子ども2人に密着育児するためでもあった。
もちろん公務員の退職は、毒母にはまったく相談していなかった。
変わり始めた関係性
年度が変わり、公務員の退職を毒母に告げると大きくショックを受けていた。
返す言葉で「あなたは、妻やその実家に操られている。家を乗っ取られる」と陰謀めいたことまで話していた。
このような発言を、私は「年寄りのたわ言」として全てスルー。
それと同時に2人の育児に注力できるようになり、毒母の必要性が全くなくなった。
自らの有用性を見失った毒母
育児に注力できるようになった私は、子どもが病気になっても毒母を頼ることはなくなった。
「わが家は完全な核家族、頼るものなどいない!」と割り切った私家族の覚悟であった。
この空気の変化を察知した毒母は、明らかな変化を起こした。
孫二人に持ってくるプレゼントが、質・量ともに上がったのだ。
クリスマス・誕生日でもないのに、大型のプレゼントを持ってくる。
「あなたのお父さん(私)は、こんなの買ってくれないでしょ?」と、私の目の前で言ってくる。
持ってくるお菓子やお惣菜も、悪い意味でパワーアップした。
お菓子については、明らかに子どもの目を引きやすい、着色料などがたっぷり入ったものばかり。
こういう類のお菓子は、その場で容赦なく突き返すことにした。
お惣菜についても、子どもが好きそうな揚げ物ばかり。
子どもには少しばかり食べさせるが、大半は私たち夫婦で処理していた。
決め手となった毒父のふるまい
毒両親と縁を切るまでは、盆・正月だけでなく、ゴールデンウィークなどの長期休暇などを含め1か月に1回は孫2人の顔見せに参上していた。
「祖父母に孫の顔を見せるのは、当然の親孝行」と洗脳的な思い込みがあった。
そんな私に対して毒実父は、「顔見せに来て当然」という態度であった。
私の2人の子どもの視力が悪いことに関しては、「誰の遺伝だ?」などとデリカシーのない言葉をかけてきた。
私の洗脳的訪問の犠牲として、2歳の息子は訪問のたびに目を充血させくしゃみを連発していた。
息子の動物アレルギー
幸か不幸か、私の長男(3歳時)に、重度の食物&ハウスダストアレルギーが見つかった。
今まで私の実家に行く度に痒そうにしていたので、もしやと思ってはいた。
しかし、自宅でカシューナッツを与えたところ、とんでもないアレルギーを発症した。
病院で検査を受けたところ、ナッツ系やハウスダストに強いアレルギーがあるので、定期的な通院検査が必要となった。
ハウスダストは、ペットの犬・猫の体毛を含むので、ペットと生活している家への出入りは避けたい。
不幸中の幸いか、毒親宅には新しい犬を飼い始めたので、絶好の「行けない口実」ができた。
そんな折、毒実父が入院するという珍事件が発生した。
毒父に日頃の不節制がたたる
入院の原因はコロナワクチン(5回目!)を摂取し弱っているところに、ウイルスが入り込み起き上がれなくなったらしい。
肥満化した身体では車に乗ることもできず、救急車のお世話にもなった。
とんでもないマヌケだが、社会的にもハタ迷惑な話だ。
本当に大変なのはここからだったが、私には良い転機となった。
2週間ほど入院していた毒父だったが、コロナやインフルやらで面会は不可。
「退院したら、うるさいだろうな」と予測した私は、子どもら二人に手紙を書かせることにした。
入院中のお見舞いには行けないけど、孫を使って「心配している」アピールを行なっておいた。
毒父の退院を聞いたが、家族内でかぜが流行っているとして、あえて見舞いに行かなかった。
この時点で、私は毒父との決別を覚悟していた。
退院した毒父の悲劇
毒父が退院して数日後、室内飼いの愛犬が寿命で死亡。
今まで私の実家は、室内猫&室内犬のおかげで毒両親の夫婦仲が何とか保たれていた。
小動物が室内にいないと、緩衝剤がなくなり毒母がノイローゼになる可能性があった。
そんな毒親夫婦はすぐさま次の室内犬を探していたが、ある問題が浮上してきた。
室内犬を飼う条件
現在の国内では、動物愛護の観点から、犬猫を買う際の条件が厳しくなっている様子。
買主が老夫婦ということで、購入条件も厳しいようだ。
毒親夫婦は購入予定の店でペット保証人を求められ、私の兄に依頼したが固辞。
困った毒母は、私に保証人になるよう求めてきた。
そもそも私の息子がペットアレルギーなのに、引き取ることはできない。
こんな失礼な依頼は、即座に拒否。
数日後、毒母から「犬がやってきました」連絡を受けたので、保証人をどうにかしたのだろう。
私としては、兄か私の名前を勝手に記名されたと推測するが、今となっては知る由もない。
『川』を語ろうとするバカ毒父
毒父が退院して2週間ほどすると、私の思惑通りにわが家に乗り込んできた。
ついでに新たな家族の室内犬を連れてきたので、屋内には入らせなかった。
毒父は玄関先で、
「父親が退院したのに見舞いに来ないとはどういうことだ!お前は北島 三郎の『川』という歌を知らんのか」と怒鳴る。
訳の分からないたとえ話は意外だったが、この怒鳴りこみは私の思惑通り。
「入院中に手紙は書いた。退院後も風邪で行けなかったことは、母にも伝えてある。子どものペットアレルギーもある。それと『川』なぞ知らん、下手なたとえをするな!」と門前払い。
自慢の愛犬を孫たちにお披露目もできずに、毒父は退散。
気持ちよいほど私の思惑通りに進み、これ以来毒父と会うことはなくなった。
意外と早い!毒親との絶縁まで
毒親の元には金輪際行きたくはないが、筋だけ通そうと考えた。
「息子の動物アレルギーにより、ペットのいるそちらには行けません」旨を伝えておいた。
それから数か月して、勝負の年末年始を迎えた。
一般的に年末年始は、祖父母のもとに孫などが集まる行事だからだ。
毒親との決裂は年末年始
近づいてくる年末年始でソワソワしている毒母に対して、
「年末年始で小児科もやっていないから、なおさら行けない」と非情の報告。
「これは一大事」と年末年始までの毒親のプレゼント攻勢には、特に目を見張るものがあった。
まず毒父は「無人餃子販売店」で買ってきた冷凍餃子を、玄関先に無言で置いていく。
毒母からの連絡で置主が発覚し、「こんな気持ち悪いことするな、食べずに捨てた」と一喝。
毒父の試みが失敗に終わり、次は毒母のプレゼント攻勢。
娘の入学祝い、クリスマスと名目を付けて、高価で大きなおもちゃを毒母目線で買ってくる。
頼んでもいないので当然いらないものばかり、置き場所にも困る。
娘も幼いながらにかなり困惑しており、私はくだらない争いに巻き込んでしまったことを恥じた。
勝負の元旦
元旦の日中には、毒母から私の妻に
「息子(私)だけ来なくてよいから、ほかのみんなは来てください」
などの勧誘&脅しラインが届く。
毒親宅では「お年玉&豪華なおせち重」が用意されているが、ここは我慢どころ。
そもそも私の息子がペットアレルギーなのに、問答無用で召集しようとする。
まさに自らのメンツばかりで、孫の健康のことなど考えてもいない愚行だった。
お年玉を渡しに来る毒母
年始の召集に失敗した毒母は、最後の行動に出た。
お正月に渡せなかったお年玉を渡す名目で、1月5日に来訪。
お年玉のほかにもくだらない贈り物を、携えていた。
新たな年を迎えても愚行を繰り返す毒母に対して、私は柄にもなくアドバイスをした。
「要らないものや大きいおもちゃを持ってこられても困る。孫のことをよく考えて、プレゼントを選んだほうが良い」
毒母は、息子からのアドバイスを受け入れる余裕もなく、
「自宅の畑のことしか考えられない!」と、孫2人の前で発言。
一部始終を聞いていた6歳の娘は、「ばあちゃんは、私のことを考えていないんだね」としっかり理解していた。
毒母は、新年早々に墓穴を掘ってしまったようだ。
思い返すたびに、恥ずかしいだろうな。哀れな毒親の最期だった。
そして、冒頭にも紹介したLINEメッセージが妻に届く。
「私の息子は心を病んでいるようです。しばらく そちらにはお邪魔しませんがよろしくお願いします」
ようやく訪れた一時の解放感
やっと、毒両親から解放された!と爽やかな気分でいたいところだが、内心は複雑。
もっとうまくできなかったのだろうか?
老親をいたぶることになってないか?
などと、解放感と共に思い返すこともある。
しかし、ここで再び気を許してしまっても、同じことの繰り返しが続く。
こちらからホイホイと出かけていっても、毒両親がつけあがるのは目に見えている。
「そら、見たことか。お前が間違っていたんだ」と面と向かって言い放つだろう。
これ以上毒両親に接しても、子どもらまで不幸にするだけだ。
あとは、この「親孝行しなければならない」という植え付けられた良心を、弱めていくだけだ。
毒親から離れる親孝行の解釈
毒親から解放された後、自分なりの解釈を行なうためいろいろな情報を自然と集めていた。
図書館で気になった本を借りたり、YouTubeで関連動画を探していた。
その中で心に刺さるフレーズが2つあった。
「親孝行は3歳まで生きれば終了」
ひとつは、オタキングでサブカルに詳しい岡田斗司夫さんの言葉。
親との関係に悩む青年女性に対して、こんなアドバイスを行なっていた。
「3歳まで生きれば、親孝行は終わっている。産まれてから3歳までの無条件の可愛い時期を堪能させてあげれば、親孝行はそれで充分。それ以上子どもに何か要求するのは求め過ぎだ」
確かに幼児期の子どもは、無条件にかわいい。
世話もかかるが、得られたものはとても大きい。
逆に私のこどもは、もうすぐ4歳。
早くも親孝行の期間が終わってしまう、と親として寂しい気持ちになった。
けれど子どもの行動を制限する「親孝行」など、捨て去ってしまえばよいのだ。
親の都合で産んだ子ども
もう一つ心に刺さったのが、かのホリエモンの言葉。
ホリエモンは、中学時代に毎日お弁当を作ってくれた母に、
「親の都合でオレを産んだのだから、それくらい世話して当たり前だ」
と思っていたそうだ。
確かにそうだ。
世間では「世話してやってる、弁当を作ってやってる、だから親に感謝しろ」という観念がある。
しかしそれは、親側からの都合の良い理屈。
子どもに感謝させて、言いなりにまでさせようとする魂胆まで透けて見える。
こんなことをズバッと言ってのけるホリエモン、大した人物だ。
まとめ 過干渉の毒親から解放されて充実した日々
毒父については、そうそうに見切りをつけていた私。
しかし、毒母についてはいろんな思惑が交錯し、関係を断ち切れずにいた。
そんな中で公務員を退職してから、独立・開業、自前でフル育児、毒父の入院、毒母のプレゼント攻勢、決別 と面白いように事が進んでいった。
これは、やはり私がこれを望んでおり、引き寄せた未来なのだろうか。
それとも毒母の言う通り私が「狂ってしまった」のだろうか?
これに対する答えは、私が自身の子どもたちをしっかり幸せにすることにしかない。
子どもたちをしっかり見守るが、過度な干渉もせず信じて見守る。
そして、子どもたちの選んだ人生を後押ししてあげたい。
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